良いチームが価値を生み出すのか、価値を生むのが良いチームなのかという鶏卵的な話がある。どちらを優先するかは組織のスタンスによると思っていた。私としては、つい内向きになりがちな性格なのでチームに向き過ぎないように元々気をつけていたが、今は「間違いなく価値が先」だと考えるようになった。
遠くて変化に時間がかかり、不確実性の高い外への価値創出から目を背け、身近で変化を起こしやすい目先のチームだけで安易に自己完結することは簡単だ。そのようなエコーチェンバーの中で内集団贔屓のバイアスを高めてしまうと、簡単に停滞し、澱み、腐敗し、カルト化する。そして、価値創出のサイクルが途絶えてしまう。
「価値とは誰かにとっての幸福である」
企業の目的は利潤追求だと言われがちだが、そうではない。企業の目的は価値創出である。その価値創出を継続する為に合理性が必要なのだ。合理性の中でも今の資本主義経済においては経済合理性が求められる割合は高い。お金がないと活動の継続や価値創出の拡大がしづらいため利潤はとても重要だ。ただ、価値が先にあり利潤が後にあるということだ。
利益の多寡や時価総額が企業の優劣を絶対的に決めるわけではない。大事な指標ではあるが絶対的な指標ではないのだ。世界の時価総額ランキングを上から眺めていった時に、あなたがその順番で価値を感じる訳では無いだろうし、ランキングが低いほど存在価値がないとは思わないだろう。無くなっては困る中小企業も沢山ある。私にとってはテスラよりも任天堂やシマノの方が価値が高く、実際によりお金も払っている。価値とはコンテキストによって変化する曖昧な物だ。
では、その価値とは何なのか。価値も当然お金ではない。最近「価値とは誰かにとっての幸福である」と良く言っている。世の中に何か良い影響を与えることだ。これはもちろん、ワインバーグ先生の「品質とは誰かにとっての価値である」になぞらえた言葉だ。
価値の対価としてお金が発生することもある。私たちがお金を払うときも、対象に何らかの価値を感じ、そこから何らかのリターン、幸福を得る。そして、その値段が高いと感じるか安いと感じるかだったり、値付けされていないモノに対していくら払うかは人によって異なるわけだ。
企業と価値
「価値とは誰かにとっての幸福である」と言っても、「誰か」も「幸福」もとても曖昧だ。ここが分かりやすく金銭換算できれば寧ろ楽だ。ここの価値観と金銭感覚が各々で合わないから議論や諍いが発生する。「自分達に対するお金が価値だ」と言い切るのも1つのスタンスだ。ただ、それは1つの信条に過ぎないし、そのように割り切れれば幸せかもしれないが、それを信じきるのは難しいのが現実だ。
だから、企業は自分たちが創出したい価値、つまり「誰」を「どのように」幸せにしたいのかを考え、定める必要がある。それを言語化した物が企業理念であったり、ミッション・ビジョンと言われるようなものだ。
「誰か」を考えるときに、まず自分たちの活動に価値を感じ、直接対価を払ってくれる顧客セグメントを考えることが大事なのは言うまでもない。それに加えて、その活動を通して間接的に世の中全体にどのように価値を届けるか、その活動に携わってくれる従業員にどのように価値を還元するかも同時に考えたい。つまり、世の中、顧客、社員全員を幸せにすること、近江商人の三方良しこそが、幼稚で原始的な理屈に感じるかも知れないが、なんだかんだで理想のスキームなのだ。
その中でそれぞれを、どのくらいの重みづけで、どういう形で幸せにしたいかが企業理念となる。大事なのは、自分達が幸せになることも当然考えて良いということだ。私は対価を払って享受しているサービスが誰かの辛い犠牲の上で成り立っていては欲しくないし、良いサービスを提供している人達が幸せであって欲しいと思う。
価値と報酬
従業員に対する報酬はその価値創出に対する貢献度、より正確に言うと、その貢献に対する期待値に対する投資として支払われる。ある社員が直接稼いだ金銭をそのまま当人に還元できるのなら簡単だ。ただ、ご存知の通り、その金銭を稼ぐ為には社内で多くの人が関わっている。事業がまだ売上げを立てていない場合だってある。
そのような状態であっても、企業は従業員に対価として給与を支払う必要がある。適切な給与を払わないと従業員はモチベーションと生産性が下がってしまうだろうし、最悪辞めてしまうかもしれない。そうすると価値を創出してもらえなくなり、事業も立ち行かなくなる。また、従業員に給与を支払って彼らの生活を支えることも価値だとも言える。
そういう複雑な状況において、それぞれの従業員が創出している価値がどれくらいで、どれくらいに金銭換算でき、いくら支払うかを評価するのはとても難しい。そこは、企業の価値観が問われるところだし、言ってしまえば恣意的だ。
企業の価値観と個性
従業員や部署の企業への貢献度を評価する際にプロフィットセンター・コストセンターだったり、直接部門・間接部門といった物差しが用いられることがある。このとき、どの物差しを使うか、どちらに分類するかの解釈は極めて恣意的だ。そして、プロフィットセンターや直接部門の方が価値が高いとされがちだ。
今現在、ソフトウェアエンジニア部門は直接部門でプロフィットセンターだと見なされる局面は増え、かなり高めの報酬を得ることが出来るようになった。ただ、以前は、間接部門でコストセンターであると見なされるケースもあったし、今でもある。例えば、直接売上げを上げている営業こそが一番の花形であり、エンジニアはなるべく削減なり外注なりしたい間接的な保守人員でコストセンターであるといった具合だ。
エンジニアが直接価値を生み出しているという実感は、構造からの幻想だ。そういう勘違いをさせてもらい、報酬も得られているのは幸せなことだ。ただ、それは永続的で普遍的な物では決してなく、コンテキストに依存する。
花形は企業によって変わる。エンジニアか、トレーダーか、営業か、企画か、デザイナーか、法務か、財務か、など。それは企業のビジネスモデルと価値観によって変わる。エンジニアに限ったとしても、スマートフォンアプリがメイン事業の会社ではスマートフォンアプリ開発技能を持つエンジニアは花形だろうが、それ以外はそうとは限らないのは当然だ。誰がより価値があるかと見なされるかには、いわば会社の個性が反映されるし、構造的な格差がある。
それでも、プロフィットセンター・コストセンター、直接部門・間接部門と言った、コンテキスト依存の恣意的な二項対立分類は避けた方が良いと私は思う。もちろん、事業がどのように売上げを立て、コストを支払っているかを意識することはとても大切だ。ただ、それは部署には密結合しない。構造を意識した上で、社員全員でトータルでどのような価値を創出しているかに向き合っていく必要がある。
「自分たちは間接部門だから価値創出に関われていない」だったり「自分たちはコストセンターだから、できれば削減されていなくなった方が良いのだ」といった変な負い目を感じて仕事をする人がいて欲しくはないし、非効率だ。全員が価値に向き合い、自分の仕事が価値に繋がっていると感じられながらモチベーション高く仕事に当たれる方がより価値創出できるし、そうなるようにマネジメントしたい。それぞれが、自分の仕事がバリューストリームのどこに位置し、どのように価値に繋がっているかを意識できることが理想だ。
抽象的な価値と具体的な成果
価値はどこまでいっても曖昧で抽象的だ。それと相補的な関係にあるのが、具体的な「成果」だ。私たちは、実際に表出してきた成果物、売上げや利益、顧客数や顧客への事業貢献指標や満足度、そういった具体的なアウトカムを元に、それらが自分たちの価値創出に繋がっていたかを評価する。
このとき、不正な利益、つまり自分たちが是とする価値創出とコンフリクトする形で上げた成果は当然評価されない。同時に思いもよらぬ成果から逆に自分たちの価値観をブラッシュアップする材料が見つかることもある。
このように、成果と価値という抽象と具体を行き来しながら自分たちの価値創出とはどういったものなのかを定期的に見直し、磨き続けることで、より精度の高い価値創出が可能になる。
また、抽象的な価値を、抽象と具体に分解する試みがミッションとビジョンだと言える。自分たちは何者であり存在意義や目的は何なのかを定めるのがミッションであり、具体的に自分たちがどうなりたくて、どういう世界を実現したいのを定めるのがビジョンだ。これもまた、抽象と具体を行き来して自分たちの価値を磨き続け、理解度を上げる為の言語化行為と言える。
カルトとカルチャー
企業文化が濃く、ともすれば価値観が均質化し、盲信的になっているように見える組織が宗教的だと揶揄や自嘲交じりに言われることがある。
ここでの「宗教」という言葉は適切ではない。無宗教を自認している日本人は多く、それらの人にとっては宗教という概念に馴染みが乏しいため、ネガティブなニュアンスをはらんだり、もしくは軽々しくエッセンス的に扱われることが多い。ただ、全ての人間は何らかの信仰に支えられて生きており、宗教もその中の大きな要素の1つだ。
なので、ここでは「カルト (cult)」の方が適切だろう。これは社会から逸脱し、害をもたらすような狂信だ。組織がともすれば「カルト的」になる、というのはしっくりくる表現だ。そして本当に社会に害を為すようなカルトになったら大問題だ。
ところで、企業にける文化醸成は重要だと良く言われており、私も強く同意する。また、文化の"culture" は耕すという意味の "cultivate" と語源を同じくするのも有名な話だ。そして、実は "cult" もまた語源を同じくしているということは余り語られていない。文化とカルトは紙一重なのだ。だから文化が濃い組織が「宗教的」だと表現されることもあるのだろう。
組織風土をどう耕すかによって、それが有益なカルチャーになるか、害をもたらすカルトになるかが決まる。これは、発酵と腐敗の関係に似ている。両者の違いが人間にとって有益か有害かの違いに過ぎないように。
では、カルチャーとカルトを分かつのは何かと言うと、それは「価値」だと思う。自分たち価値だと考えているものを自己満足で閉じこめず、その確からしさを外部に問いかけながら変容させていくこと、反証の扉を外部に開けておくことだ。そうしないと内集団贔屓に陥ってしまう。
内集団贔屓(In-group favoritism)・外集団バイアス
内集団贔屓(In-group favoritism)とは、自分が所属する集団を過大評価し、外部の集団を過小評価する傾向のことだ。これは自己防衛や協力関係の形成に役立つこともあるが、同時に偏見や対立を生む原因にもなる。
直訳すると「身内贔屓」だ。これは「社会のルールを破ってでも身内を守る!」みたいな閉鎖的コミュニティのヤンキーマインドに近いと考えると分かりやすいだろう。
「自分は頑張っているのに周りは認めてくれない」「チームは頑張っているのに他部署が邪魔をして成果を出せない」「うちの会社は良い会社なのに世間は自分たちの価値を認めてくれない」これらは全て内集団贔屓だ。そして、これらが幼稚で危険なことは、客観的に考えれば分かるだろう。エスカレートして「それでも自分たちは正しい」「自分たちは特別」という思い込みが強くなり、外部の意見や批判を受け入れられなくなったら組織はカルト化する。
外からのフィードバックを拒むのは、傷つくのを恐れる弱さに他ならない。そこに恐怖心を抱くのは人間として自然なことだ。自分自身や同質性の高い卑近な人達だけで閉じこもっている方が安心できる。でも勇気を持って乗り越える必要がある。完全に閉じた無人島などの系であれば良いが、人間は外部の社会と繋がらないと生きていけないのだ。
内集団贔屓が人間が普遍的に抱えがちなバイアスである以上、意識的に抗う必要がある。ちゃんと外に目を向ける必要があるのだ。現実を受け入れること。自分たちが価値だと考えていることを認めてもらうように外部に働き掛けること。そのフィードバックからその価値基準が妥当なのかを検証していくこと。そうしないと危険だし、価値創出しているとも言えないのだ。短期的には自分たちの閉鎖的なコミュニティの中での幸福度は高められるかも知れず、その点では価値を創出していると言えるかも知れない。ただそれは、規模的には小さく持続性も乏しいし、外部に害をなしてしまったらトータルではマイナスである。
三方良しを意識すべきなのもここに繋がる。自分たちと顧客の間だけで内集団贔屓を高める共依存関係を構築し、自分たちだけが利益を享受しつつ、社会に損害を与えていたら本末転倒なのだ。社会全体に価値を提供する必要は必ずしも無いし、多くの場合現実的に難しいが、トータルでマイナスだったら意味がないのだ。
開発組織だけを良くしようとしない
何度も言うが、自分たちの営みが、どのように価値に繋がっているかを意識できるかが肝だ。そうしないと内集団贔屓に陥って、価値創出サイクルが止まってしまう。開発組織において良くある落とし穴は局所最適だ。開発組織内だけ綺麗に整備しても、それがチーム外や世の中に価値を届けられてないのであれば、価値は乏しいのだ。
開発組織には数多くの「やりこみ要素」がある。CI/CD自動化、開発プロセス改善、キャリアラダー整備、etc. やれること、やりたいことは無限にある。開発プロセスにおけるスクラムのように、多くのことに標準的なプラクティスが定められ、実行するならそれらを踏襲するのが無難だ。そこで独自の手法を採用することが優位性にならないのなら意味はないし、良く使われているものに対して優位性を出すのも難しいからだ。
当たり前品質であることや、やることが明確で、複利が効くような施策は勿論やるべきだ。例えば、IaC, CI/CD自動化、開発プロセス整備などは、デリバリーの安定性とスピードを高める。この辺りは、私も得意領域なので、それらの優劣が生産性に劇的に影響することは理解している。言ってしまえばこれらは効果の「確実性が高い」タスクだ。
そこには実行に移したくなるプラクティスが無数にある。それを導入し続けているだけで業務時間を埋めることも可能だろう。終わりのない盆栽みたいなモノで「やり込み要素」と表現したのもそれだ。ゲームのやり込み要素が楽しいのは分かる。ただ、仕事において、求められたハードルをクリアしているのに、追加のやり込み要素を追い続けるのは無意味だ。勿論、クリアすべきハードルは変化するため、現状の組織の内部品質がそのハードルを満たしているかどうかは常に意識して見直し、新しい施策を取り入れていく必要はある。
ただ、価値に向き合わず、「やった方が良いかも知れない」ことを「やるべきこと」として、教条主義的に適用しつづけるのはカーゴ・カルトだ。ここでもやはり「カルト」だ。
何の為に、どこまでノコギリを研ぐか
ここで良く「木こりのジレンマ」の寓話が持ち出される。研がれていないノコギリで木を切り続けるのは当然非効率だし、ノコギリを研ぐ時間を割り当てる必要がある。なまくら刀を使い続けるストレスは大きいし、実際生産性も低い。それが分かりながら、私も含め、なまくらを使ってしまう人が多い。だからこそ悩ましく、この寓話が良く語られるのだろう。
ただ、過剰に研いだ刃物は切れ味は良いが刃こぼれしやすくなる。長い時間をかけて過剰に研いで、その切れ味を少しだけ楽しんで、刃こぼれしたらまたすぐに研ぐ直す、みたいな無駄な自己満足サイクルはそれもまた滑稽だ。
あなたがなまくらだと思っているかも知れないモノが価値を出しているのであれば、今のところはそれで十分かも知れないし、何なら石斧でも良いかも知れない。そして、同僚や隣の部署が石斧で戦っていて、それがボトルネックになっているのなら、その手助けをした方が価値があるかも知れないのだ。
その上で、自分のノコギリを研ぎ込むか、周りにノコギリを供給するのがどちらが良いのかは状況による決断だ。ただ、全体最適を考え、どちらの方が最終的な価値に繋がるかを考えた上で判断したい。特にマネージャーやリーダーは意識的にその視点を持った方が良い。自分たちのチームだけを良くしようとしたって仕方ないのだ。それに果たしてそれが本当に良いチームだろうか。
「自分はちゃんと技術力を磨いているのに同僚は意識が足りない」、「自分たちはちゃんと開発しているのに、他部署が邪魔をしてくる。製品を売ってきてくれない」。そのように自分だけが正しいと信じ込み、周りを信頼できていない状況が果たして健全だろうか。
周りや他部署が機能していなくても、自分や自分たちで価値が出せているのであれば良いかも知れないが、そのような状況は稀だろう。何にせよ、自分たちの活動が実際に価値に繋がっているか検証しよう。価値に繋がっていないのであればブロッカーを取り除こう。その為に周囲と対話しよう。ドメインに向き合おう。
個人のキャリアとのコンフリクト
このような考え方は、短期的には個人のキャリア形成とコンフリクトすることが少なくない。「そうは言っても自分のノコギリを研ぐのが最優先だ」という話だ。そう考えるのは良く分かる。
ただ、実は、開発チームやエンジニア個人の合理的で打算的な戦術としても、会社全体の思惑や価値観を理解しておく方が、より価値創出に繋がるアクションを起こしやすくなり、報酬などのリターンも得やすくなる。また、周りの思惑が分かれば、上手く信頼を獲得し、自分が使いたい技術を巧みにねじ込んで、価値創出サイクルに融合させるなどのアクションをやりやすくなったりもするのだ。
とは言っても、やはり、受容できないコンフリクトが発生することはあるだろう。先に述べた通り、どういったスキルや行動が評価されるかは企業の価値観に依存する。組織によって「花形」は異なるのだ。あなたが活かしたいスキルがどうしても自分の期待以上に評価されないこともあるだろう。
そういったケースでは、あなた自身が変化するか、組織に変容を促すか、転職等で環境を変えるか、現状を受け入れるか、何もせずに状況が好転することを期待する、などの何れかの選択をとる必要がある。あなたは、あなた自身の価値のオーナであり、幸福の最大化を目指すべきだ。
自律・自由を求めるなら価値に向き合う
それぞれが自律・分散・協調し、自由に自発的に動く組織を目指すべきかという問いがある。難易度は高いと思うが、私は目指したい。強力なリーダーシップとボトムアップが両立するミドルアップダウンマネジメントが実現された活力ある組織こそが一番価値を生み出すと思うからだ。
ただ、その場合、各々が価値への接続を意識することは不可欠だ。価値に向き合わないと、組織は卑近な同僚の安易な問題解決ばかりする似非自己組織化に陥る。それは一時的には幸せかも知れないが持続性に欠けるのだ。確実性の高いプラクティスの導入は、無駄な複雑化を排除するためで、不確実で曖昧な「価値」に向き合う時間を増やす為なのだ。
いくら綺麗な箱庭を作っても、それが価値に繋がらないとお取りつぶしになってしまうだろう。自分たちにとって理想の状態を維持し、そこで自由に行動したいのであれば、尚更価値に向き合い、自分たちの価値を認めてもらう必要があるのだ。

