長時間労働には中毒性がある

ハードワークと長時間労働は違う。ハードワークの結果、長時間労働してしまうこともあるだろう。ただ、長時間労働は非効率だし、常態化しているのであれば見直した方が良い。当人達が満足しており、成果が出ていれば何でも良いのは確かだ。ただ、長時間労働を盲信するのは、改善の精神やストイックさに欠ける。

あなたの苦労はあなたにだけ価値がある

人間には、獲得した何かが同じであっても、自分の苦労が大きいほど価値があると錯覚してしまう特性がある。例えば以下のような現象だ。

  • ポケットマネーでパッと買った物よりも、頑張って貯金して買ったモノが大事に思える
  • ちょっと試したらできたことよりも、習練を重ねて出来るようになったスキルの方が思い入れを持てる

大人が戯れに買った趣味の楽器より、子供が我慢して貯金して買った楽器の方が思い入れを持って練習に励めたり、苦労してリフティングができるようになった子の方が、その後飽きずにサッカーを続けられるみたいな話が挙げられる。卑近な例だと、行列に並んで食べたラーメンをおいしく感じる、みたいなのがある。

これはいわゆるサンクコストバイアスみたいな話だが、皮肉じゃなく幸せな勘違いだと思う。長く継続して「自分にはこれしかないんだ」という錯覚を得られている物に取り組んでいる時は多幸感がある。私にとってプログラミングやOSS活動はその類のものだ。そういうバイアスは継続する糧になる。

同様に、思い入れを持ちすぎて、それを手放して他のことをやる変化を受け入れることが難しくなることもある。プログラマが自分の得意な技術以外をやりたがらなかったり、マネージャーをやりたがらない、みたいな話にはそういう側面もあるのではないか。これは、本筋のサンクコストバイアスの落とし穴だ。このような材料を持って自分の状況をメタ認知することは大切だ。

そういうメタ認知的な側面から、人間には「非効率に結果を出したことに、より価値を見いだしがち」というバグがあるということは強く自覚した方が良い。

仕事においても、苦労して結果を出した方が価値があると錯覚しがちだ。逆にあまり努力せずに結果が出ても手応えを感じられない、というのはよく分かる。チームとしても苦労を共にした方が結束が高まる、という話も実感を持って理解できる。以下のように立式できるかもしれない。

仕事の満足感 = 成果 × 苦労

ただ、仕事においては、同じ結果を出すならば省力で効率良く価値を出した方が良いに決まっている。苦労を自分や自分たちをモチベートする為の自己満足だと自覚して活用する分には良いが、それが行きすぎて非効率を賛美するようになるのはナンセンスだ。苦労することが非効率とは限らないが、苦労を肯定しすぎると非効率への重力を高めてしまう。

それが行きすぎて、「苦労」その物に価値があると誤解してしまう人も多い。

例えばテレビ番組の芸能人の長時間マラソン。付け焼き刃の高々数ヶ月の練習で素人が長時間走ることがドラマティックに描かれることがあるが、長年鍛練を続けてきたプロフェッショナルが颯爽と走り抜ける方が世の中的には価値があるに決まっているのだ。勿論、当人が何かを乗り越えて達成したことに満足しているのであれば、本人にだけは価値があることではある。

苦労していないように感じる省力な料理を出されたときに、「心がこもってない」や「手抜き」などと詰る人がいる。レトルトや冷凍食品、お総菜やそうめんなどが良く俎上に上がる。これは苦労そのものに価値があると曲解してしまった哀れな人間の末路だ。

結局、苦労そのものには価値は無い。もしくは自分や自分たちの中だけであれば、そこに価値を見いだしても良い、ということだ。

長時間労働の楽しさ

武勇伝的に語られがちな苦労に長時間労働がある。そして、実は、自主的にやる分には長時間労働はとても楽しい。好きなことに夢中になっている状態と同じだ。苦労と書いたが、苦しくもない。肉体的に疲れたとしても、逆にランナーズハイ的な快感が得られることもある。自分の限界に挑んでいるような錯覚に陶酔してしまう。

熱中すれば、読みたい本が無限にでてくるように、仕事は無限にでてくる物だ。特に、やればやるだけ成果が出るように感じられる状態は楽しい。まさに入れ食い状態で、休んでいる暇など無いと感じてしまう程だ。

別に成果が出ていなくても、長時間働いているだけで何となく自分が頑張っている気になれる人もいるし、あとから「俺はこれだけ頑張ったんだ」と苦労自慢もできる。

長時間労働できることは武器である

長時間労働は誰にでもできることではないということは書いておきたい。あなたが長時間労働で成果を出しているのであれば、それはあなたの武器である。あなたにとっては当たり前にできることで、誰にでもできると思うかも知れない。そのように自分が当たり前にでき、実は他の人には困難なことこそ、一般的に強みと言えるやつだ。だからそれは誇って良い。他の人が長時間労働できないのは、周りが怠けているからではなく、あなたがその領域では特別なのだ。

同時に、その武器の価値を過大に評価しない方が良い。それは身長の高さ、IQの高さ、握力の強さと同じように、1つのパラメーターに過ぎない。ビジネスの世界では強い付加価値ではあるが必須ではない。それが今の社会構造上強く重みづけされていることも不健全だと感じる。

もう一つ問題なのは、感化されて、向いていないのに長時間労働してしまう人だ。その結果、長時間労働できる能力を獲得したり、自分の適性な労働時間に気付いて引き返すことができれば問題ない。ただ、本当は辛かったのに、長い期間長時間労働を続けたあげく、何の成果も残せなかったら、苦労を誇るしかなくなってしまう。これは悲劇だ。そういった人が「俺はこんなに苦労したんだ」「おまえも苦労すべきだ」と言ったテンプレ文言をのたまいがちだが、あなたが思っていた以上のリターンを得られなかったことは残念ですが、あなたが好きで選んだことですよね、としか言えない。

成功したとしても、それが長時間労働の結果なのかは厳密には分からない。だとしても「自分が長く一生懸命働いたから成功できたのだ」と誇り、自尊心を持つのは悪いことではない。ただ、それと同時に長く働いたにも関わらず、成功できなかった人も多くいるのだ。

長時間労働は癖になる

個人的に感じる長時間労働の負の側面としては、依存性の高さがある。

長時間労働で危機的状況を脱した体験は強い快感を得られる。「もう間に合わないかも知れない」「今回は流石に無理かも」と思っていたのに、ギリギリで切り抜けられたときの快感は強烈だ。まさしく緊張と緩和である。そういう「寝ないで間に合わせた」「土日返上で頑張った」などというドラマチックな悪い成功体験が、負のフィードバックループを回してしまう。またその快感を味わいたいと思い、スリリングな状況を無意識化で求め、「最悪土日で間に合わせれば良いか」とすら思ってしまう。まさにアドレナリンジャンキーだ。

中毒症状同様に繰り返す毎にだんだんその快感は失われていく。それでもあなたは、長時間労働や土日返上で働くことが最早前提となっており、そうしないと仕事がこなせなくなってしまう。依存症患者の出来上がりである。

これは私の実体験でもある。仕事で毎日終電で帰っている時期があった。大変なときもあったが、充実感もあったし、同僚と一緒に終電で帰るのも楽しかった。ただ、今から思うと効率良く働いていたとはとても言い難い。翌朝は頑張って出社するものの、午前中はだらだらし、夕方くらいに調子が出てくる。定時過ぎてから同僚と食事を取り、戻ってきてからが本番、くらいの感覚になっていた。

20代から30代中盤にかけて、私の労働時間はジワジワと着実に増えていった。それが結局毎日終電というところまで行き着いてしまったのだ。それでも終電という決まった時間に帰れているのなら、一段落付けようと思えば仕事を終えられるということで、もっと早く帰ろうと思えば帰れるはずだったのだ。

少し目が覚めたのは、30代中盤に転職したときだ。この会社では、社員のほとんどが定時で仕事を終えるのが普通だった。新卒で入った社員の多くが、その雰囲気から学び、就業時間内で仕事を終えらえるスキルを身に付けていた。

それでもちゃんと仕事は回っていたし成果は出ていた。私が所属していたのは社内ベンチャー的な部署でハードワークが必要だった。なので、時にはチームが長く働く必要があるときもあったが、それが常態化することは無かった。中には長時間労働を武器にしている人もいたが、労働時間の多寡でいがみ合うことは無かった。ハードワークとは長時間労働のことではないのだ。

このとき、自分が如何に効率良く密度高く働くことを怠ってきたかを痛感し、反省した。長時間労働時に蝕まれ、だらだらと仕事をしてきたのだ。それでも、成果は出してきたので良いと思ってはいる。ただ、若いうちに8時間という制約の中で密度高く働くスキルを身に付けることも1つの正解なのだとも考えるようになった。

それでも、それ以降、私が労働時間を短くできたかと言うとそんなことはない。流石にだらだらと連日終電まで働くことは無くなったが、仕事を8時間に収めるのは到底無理な話だった。今でも、長く働きがちである。立場が変わったのもあるが、それを言い訳にするのも、既存の社会構造に囚われてしまっているという話だ。

長時間労働を賛美しない

働き方には人それぞれのペースがある。それは若いうちに身に付けた所作や習慣、個人の特性などに依存する。とにかく持続可能なペースで働くこと。周りに惑わされないことが大事だ。

長時間労働が常態化しているのであれば、そこには非効率が潜んでいる。現状を疑って、労働時間に制約を設け、その中で最大効率を出すことを真剣に考えた方が良いだろう。仕事の密度を上げること、捨てることを考えよう。時間を制限して、その中で最大効率を出すトレーニングをするのだ。休息を取ること、仕事に直接繋がりのない活動をすることも大切だ。それがあなたの幸福に繋がるだろうし、視野が広がって仕事にも良い影響を及ぼすかもしれない。

長時間労働が時には有効なこともある。しかし、それは一時的なブーストのために熟考の上で、 ようやく切るべき切り札なのだ。そして、それを切った時点で戦略的失敗であり、それを戦術で補おうとしているに過ぎないことを強く認識すべきだ。

時に長時間労働するのは楽しいモノだ。非日常のワクワク感、徹夜明けの高揚感がそうであるように、疲労は人体に生理的錯覚の快楽をもたらしてくれる。チームで苦労を分かち合う経験が、チームの結束を強くすることもある。そして、そういう「お祭り」的な快感が、長時間労働を賛美する結果に繋がる。

これはとても危険だ。成果ではなく苦労に着目している。先に述べたように、苦労は当人達にだけにしか価値はない。大事なのは、世の中に対する価値提供でありその為の成果だ。

価値や成果を見失って闇雲に動いている組織は、苦労こそがバロメーターになってしまう。一緒に苦労した仲間を大事にし、「祭り」に参加出来ないメンバーに疎外感を感じさせる。とても不健全だ。

そして、長時間労働を賛美すると、それを改善しようとする意識が働きづらくなり、非効率を許容することになる。長時間労働というカードを切ったからには、ちゃんと振り返りを行い、再発防止策を講じなくてはいけない。

私があるリリース間近のソーシャルゲームのテックリードをしていた時のことだ。競合メーカーの新規タイトルのリリース情報を入手し、それが自分達のリリース日とまるかぶりすることが分かった。当時のソーシャルゲームは初速が大事であり、リリース日にアプリランキングのトップを取ることが至上目標だった。

競合メーカーとの食い合いを防ぎ、スタートダッシュを決める為にも、リリースを1週間前倒しにする決断をした。ただでさえリリース間際で立て込んでいる時期で無茶な話だった。ただ、開発メンバーの多くも自分たちが苦労して作った物がちゃんと日の目を見て欲しいという思いが強く、それでも士気は高かった。結果として、チーム一丸となってリリース日を前倒しできた。これはとても充実した体験だった。

ゲームのリリース直後は素早く対応するために要員を貼り付けておくことも大事だが、それを踏まえた上で、無理した人にはちゃんと休みを取ってもらうプランをリリース前に立てた。プライベートの都合や信条上の理由で業務時間を延ばせない人を無理に巻きこむことは避け、疎外感を感じさせないようにも気をつけた。ただ、それは全然万全ではなかっただろうし、内心では長く働くことを嫌がりつつも同調圧力に屈していた人もいただろう。

上手くいった部分もありつつも、やはりこれは失敗だった。そもそも、競合メーカーとリリースが被ったとしても、勝てる自信があればずらす必要はなかった。自信が無かったからリリース日をずらさざるを得なかったのだ。逆に、リリース日を後ろ倒しにしてクオリティを上げる手もあっただろう。しかし、このタイトルの開発は延びに延びていたので、もう流石に出さざるを得ない状況だった。結局、そもそも戦略的にジリ貧状態だったからここで無理せざるを得なかったのだ。楽しかった。だがやはり失敗だった。

長時間労働には限界がある

人がどれくらい働けるかはそれぞれ違うが、肉体労働であれ知的労働であれ、そこには限界がある。長時間の肉体労働には限界があり、非効率で危険なことは認識されているだろう。同様に知的労働にも限界があることは余り意識されていないように感じる。思考力や精神が無限の資源だと思っているのであれば、それは目に見えないものに想像力が及ばない愚か者である。

長時間労働をしている人は全速力で走っているつもりかも知れないが、実は徒歩より遅い歩みになっていることに気付いていない可能性も高い。苦労の快感に酔ってしまっている、もしくは疲れるほど自分の頭脳を追い込めておらず、だらだら働いているだけかもしれない。いわゆるアドレナリンジャンキーだ。

フロー状態と言われるような生産性の高い集中状態は一日の中でそれほど長くは続かないことが明らかになってきている。書籍「究極の鍛練」において、チェスプレイヤーやバイオリニストが質の高い鍛練に充てられる時間は世界トップクラスでも4,5時間、一流プレイヤーで3時間程度だと書かれている。本当に集中していたら、それくらいしか持たないのだ。

もちろん、仕事中は常にフロー状態でいられるわけではない。deep workの時間はフロー状態に近い状態であることが望ましいが、コミュニケーションや事務手続きなどのshallow workも必要だ。だとしても本来1日8時間という労働時間は十分に長い時間であり、集中力を持続させるには長すぎるくらいだ。

長時間全速力で走り続けられる人がいないように、長時間働き続けられる人もいない。自分の限界を超えた長時間労働は避けるべきだし、そうしないと「疲労骨折」するかも知れない。怪我を抱えながらも生き残った人が過去の痛みを肯定する為に長時間労働を正当化して老害となるケースも見られる。

長時間無駄に働き続けるよりも、違うことをやる時間を意識的に取った方が良いだろう。休息は大事なスキルだ。身体を休めるだけではなく、違うことをやるアクティブな休息も大切だ。それらはいざというときのバッファになるかも知れない。バッファがない状態で動いていたら早晩詰んでしまう。新しいことをやるときのアイデアの種になるかも知れない。勿論基本的にはそういう打算無く休息を取った方が良い。

長時間労働せざるを得ないと感じる時

仕事は無限にある。ある課題を解決したら次の課題を発見する。競合にデリバリー速度で上回らないといけない。市況の変化や資金状態により、締切がタイトな突発業務が発生することもある。当事者意識が高いほど仕事をどんどん見付けてしまうものだし、ずっと働きたくなってしまう、働かなければいけないと急き立てられてしまう。目の前に広がる仕事に圧倒されて周りを見る余裕がなくなり、視野狭窄に陥ってしまう。

仕事は無限にあるので、長時間ずっと働きたくなるし、働かないといけないように感じてしまうのは分かる。しかし、無限だからこそ長"期間"、効率良く持続的に働かないといけないのだ。長時間労働は長期的には非効率で持続可能ではない。「長時間労働しないとうまくいかない」という思い込みから脱却しないといけないし、苦労している自分に陶酔していないかも見直す必要がある。

大事なのは何事も制約を設けること。制約の中で取り組むことで実行精度が上がる。例えば時間的制約を設けること、やること、やらないことを決めて仕事を断捨離すること、その上で決めたことにフォーカスすることだ。「無駄な仕事をしていないか」「もっと短くできないか」を真剣に考えて実行密度を高めないといけない。

ズルズルと仕事が積み重なっていつの間にか長時間働いてしまっていることもある。仕事を見直す時間も取れない程忙しいと感じてしまうかも知れない。仕事を捨てることは辛い。やりたいのに辞めざるを得ない口惜しさもある。だからそれを考えたくない、というのもある。そういうときこそ頑張って立ち止まって見直すべきだ。

人間余裕がなくなってくると思考力や判断力が鈍り、安易な方法に縋りがちだ。貧すれば鈍するである。睡眠時間を削ればどうにかなる、徹夜すれば何とかなる。それがダメなことは皆分かるだろう。長時間労働もその類いの安易な手法だ。

それでもなお、長時間労働が必要に思える状況がやって来るかも知れない。「これをあと1週間で何とかしないと会社がヤバい」といった全速力が求められるような状況になることもある。スタートアップで働いていればそんなことの連続だったりもするし、冷静に考えれば実は大したことでもなかったりする。

ただ、そういう思い込みや、前しか見えない状況がフォーカスとパワーを生むことも多い。長時間労働は非効率だが、世に価値が届けられれば何でも良い。我々はいつだって非効率だ。だからこそ改善し続ける必要がある。なので、長時間労働に陥ったのであれば反省しなければならない。それは予算内に収められなかったということだからだ。

経営者やPdMが長時間働きたくなるのは当たり前

自分がやりたいことを事業にしている経営者やPdMは当事者そのものなので、長時間働きたくなってしまうのは当然だ。私にも経験があるが、業務時間外でも休みの日もずっと仕事のことを考えてしまうものだ。

だから「メンバーが全然意識高く働いてくれない」などと嘆くのはおかしな話だ。当人が一番コミットメントを持っている訳だし、そうじゃなかったらまずいだろう。初期段階で既に大きなコミットメント格差があり、そのままだと格差は広がる一方だ。だから、事業の当事者はそのギャップを埋める努力をしないといけない。オーナーシップを独占せず委譲する、メンバーをモチベートする、そこに腐心する必要がある。

イチ社員であっても当事者意識を強く持ってハードワークすることは良いことだ。やりたいなら多いにやれば良い。何かに自主的に真剣に取り組んだ経験は人生の糧となる。

ただ、本当にそこに労力を注ぐ価値があるかは定期的に見直した方が良いだろう。取り組んでいる事業が本当に価値がある物なのか、「自分がやるしかない」と思い込み過ぎていないか、本当は手分けできる仕事を抱えて非効率になっていないか、雰囲気に呑まれて単に長く働いているだけになっていないか、理不尽を受け入れ過ぎていないか。

社員が望まぬ長時間労働を強いられるような状況は当然論外だ。目の前のお客様に迷惑がかかるため、やらざるを得ないように感じてしまうこともあるだろう。やりたいと思えるならいいが、やりたくないけどやらざるを得ないのだったら、そんなことはやらなくて良い。それは、言ってしまえば「顧客を人質にとられている状態」だ。そういう状況に追い込んだ会社側の能力不足であり、それだけならまだ良いが、それを盾に労働を強制するのは卑怯だ。そんな状況に流されずに、割り切ってパッと仕事を終えてしまえば良い。もはやその事業構造が健全な持続性に欠けるということなのだ。

長時間働きたいと思えるほど人をモチベートし、長時間働かせるな

これは 転職できるくらい人を訓練し、転職したいと思わないくらいに厚遇せよ というRichard Bransonの言葉をもじったものだ。

モチベート能力やモチベートした経験の乏しい未熟なリーダーが、人を強制的に長く働かせたくなってしまうことは良くある。しかし、モチベーションの低い人を長時間拘束して働かせることには何の意味もない。

メンバーが思うように働いてくれないのだとしたら、それは、リーダー側の能力不足か相性問題だと捉えるのが建設的で、メンバーの意識や能力の不足だと考えない方が良い。

うまくモチベートすれば人間は驚くほど働くものだ。その状況を作れないのだとしたら、それはリーダーの問題だ。ちゃんとモチベートできているチームであれば、事業やプロダクトの為にハードワークするし、いざというときは長時間労働を厭わず働くようになるだろう。そういうときに逆にブレーキをかけてあげることがリーダーの役目になったりするのだ。

常識や一様な価値観を疑え

「企業戦士」だったり「モーレツ社員」といった昭和の価値観を冷ややかに見て、もっとスマートに働こうと考えた人も多かったはずだ。それでも、結局大人になってキャリアを積む中で、長時間労働という古典的な武器をありがたがるところに堕してしまう人が多いのは滑稽な話だ。これも結局昭和から進化できていないことの現れなのかも知れない。

人それぞれ、最適な労働時間や働き方がある。様々な働き方の人を働きやすくすることで社会の生産性も上がる。長時間労働できることは価値がある。ただ、そういう人ばかり成果を出しやすい社会構造になっていても仕方がないのだ。

「大した時間働いていない人が報われるのはずるい」と思ってしまう人もいるかも知れない。ただ、冒頭に述べたように、あなたの苦労は他者にとって価値はない。苦労した人が報われるのではなく、価値創出した人が報われるべきだ。

それに、長時間労働を苦労だと思っているのであれば長時間労働の才能が無い。眠いのにショートスリーパーだと言い張っている人のようなモノだ。本当に長時間労働できる人は好きで長時間働いて、それを苦労とも思わないし、働く時間が短い人を詰ったりもしないだろう。勿論、成功の為に多くの場合苦労は付き物だ。ただ、それは単純に労働時間に比例するものではなく、どれくらい精神を削ったかという話なのだ。

なので、長時間労働の有効性を認めつつも、多様な働き方を認めて、社会の生産性を上げないといけない。それに、昭和の企業戦士も専業主婦との役割分担があってこそ成り立っていた一時的で局所的な社会システムに過ぎず、現代では成り立たない。

そもそも、IT化やシステム化が進んだ結果、労働密度も上がっており、同じ8時間でも現代人の方が忙しい。川崎重工の8時間労働が労働者にとって革新的だったのはもう100年以上前の話である。その前提を疑って、もっと短い時間をデフォルトにするべき時がやってきているのではないかとも思う。

自分や購買する製品やサービスを作っている人達が幸福であって欲しい

自分の幸せが誰かの犠牲の上に成り立っていて欲しくないと思う。少なくとも、自分が購買する商品やサービスを作っている人達が幸せであって欲しいし、望まぬ長時間労働に苦しめられている人達や、狂信の上に成り立っているプロダクトであって欲しくない。

他者に苦労を求めるのは害悪である。あなたの苦労はあなた自身にしか価値はないのだ。